くらしき文化サポーター

中四国有数の拠点都市に成長した倉敷市。 観光地で有名なだけでなく、長い歴史と多くの文化遺産を有するまちなのです。少しずつ、このまちの文化を紹介していきたいと思います。

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 かつて高梁川は、酒津のあたりで東西の二本に別れて水島灘に流れ込んでいました。

 巨大な中洲を作る河川の作りと上流の砂鉄採取による鉄穴流しの影響により、二つの河川が別れる周辺から下流にかけては、たびたび洪水が起こり、当時の高梁川はまさに暴れ川でありました。

 その高梁川は、二つの河川を西側の一本にまとめるという国家規模の大工事によって現在に形に変えられました。
 ほぼ大正時代を費やしたこの大工事の後、高梁川は大きな洪水を引き起こしていません。

 しかし洪水の記憶は今にも伝えられています。
 その一つが「砂持ち神事」でしょうし、これから紹介する東側の高梁川(東高梁川)の堤の石垣文もそうです。

20100505_094.jpg

 県道188号線、竜の口交差点の東、水島臨海鉄道の東。
 倉敷市福井の道です。
 道幅があまり広くないため、今は主要道ではなく抜け道として使われることが多いこの道。
 家々の間の草の陰に石垣が残り、その一つにこの文が彫られています。

20130908_013.jpg

明治三年庚午夏四月繕補浦田村堤
址長四十五間石垣高四尺幅四尺
“し(次の下に土)”直高一丈幅二間
合力三十四个村
村名記于左

(読み下し文)
明治三年庚午(かのえうま)夏四月、浦田村の堤を繕い補う。
址(し)の長さ四十五間、石垣は高さ四尺、幅四尺、“し(次の下に土)”は直高一丈、幅二間なり。
合力すること三十四ケ村。村名は左に記す。

八王寺 川入 子位荘 西坂 生坂 三田 松島
吉田 中田 別府 黒崎 福島 大島 平田
白楽市 渋江 田之上 四十瀬 四十瀬新田 埋川 福井
白楽市新田 笹沖 吉岡 黒石 八軒屋 粒江 粒浦
天城 藤戸 西疇 曽根 中疇 内尾

鴨井好敏記
岡野篤

20100505_105.jpg

 つまり明治三年に、東高梁川の堤防を近隣の村が協力して直したことを記しているのです。

 明治二年には高梁川下流で大きな洪水があったと複数の文献に記録されておりますので、この石垣が築かれたのはその補修のためであったと考えて良いでしょう。

 ちなみに、明治二年六月に「東川の(下流に向かって)左岸は四十瀬が破堤、右岸は中島小溝に切込」と「連島町史」には掲載されていますが、おそらくはそのとき堤防が損傷したのはさらに広範囲であったと想像されます。
 (下流に向かうとこの道は左岸になると考えられます)

 それゆえに多くの村々の協力でこの堤防は補修されたのでしょう。

20100505_096.jpg

20100505_100.jpg

 ちなみに福井のこの道。
 周囲より一段高くなっており、堤防の上に作られた道であることを想像させますが、それも歴史を知らなければ見逃してしまうものです。
 事実、この堤防の基礎に使われているこの石のことは数人を除き、近所の方さえ知らないようです。

 忘れ去られるのは歴史の必然とは思いますが、それでも記録に残しておくべきだと思いましたので、この記事を書きました。

 なお、本文章の作成にあたっては、地元の郷土史に詳しい三宅昭三さんが、平成13年に調査し、石垣文を読み下し、解説したものを引用・参照させてもらっています。
テーマ:岡山県 - ジャンル:地域情報
コメント
石碑を確認に行きました
歩いて20分かからない場所ですので、見に行きました。碑文は素人にはなかなか読みにくくなってはいますが、きちんと残っています。近隣の方のお話では、川幅は広いものの、普段はあまり水は流れていなかった。大雨が降ると川幅一杯になって流れていたと聞いているとのこと。なお、南中学校の近くには、土手の名残だという斜面があります。
2016/11/19(土) 16:53:35 | URL | やましん #-[ 編集]
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