くらしき文化サポーター

中四国有数の拠点都市に成長した倉敷市。 観光地で有名なだけでなく、長い歴史と多くの文化遺産を有するまちなのです。少しずつ、このまちの文化を紹介していきたいと思います。

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昭和3年~10年ごろ

倉敷市 倉敷川

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平成24年2月

倉敷民藝館前から前神橋(南方向)を見る。


 倉敷の町は倉敷川とともに発展してきた。

 中世末から干拓が始まった倉敷の中心街。
 その中で、干拓の水抜きと物資の輸送路として残した澪筋(海や川で水深のある道筋)が、現在の倉敷川である。

 児島湾・瀬戸内海とつながる倉敷川は船運に都合が良く、やがて倉敷川の最上流(現在の倉敷美観地区内)は物資の集散地となっていった。
 その後、この地は江戸時代を通じて幕府直轄領となり、大いに栄えることになる。

 倉敷の発展を支えた、物流の大動脈・倉敷川。
 かつては、満潮時にあわせて多くの船が上流部にまで遡り、物資の積み降しが行われていた。

 それは江戸の時代から古写真に写る昭和の初めまで変わらなかった。

 古写真の季節は、晩秋の朝といったところだろうか。
 朝靄の中、多くの船が河岸に停まる。
 荷揚げのためか、取引のためか、集まる人の姿も多い。
 蒸気を上げる船も見える。

 こうした風景が日常であったのだ。

 しかし、昭和初期以降、運搬方法は鉄道や自動車へと様変わりし、川を使う小規模な船運は廃れていった。

 そして、昭和34年。
 児島湾の締切により、倉敷川の船運の歴史は終焉を迎えるのである。
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大正9年

(倉敷紡績株式会社) 発電所

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平成24年2月

中国電力船倉変電所


 倉敷市内の家庭で電灯が本格的に点灯されたのは、明治43(1910)年8月26日だった。
 岡山に遅れること16年余り、津山より4か月遅い電灯の輝きであった。

 発電を担ったのは、倉敷電灯。
 当時は、小規模な電気会社が各地に誕生していたが、遠距離送電の技術が未発達であったため、発電所は町並みの近くに作られていた。

 倉敷電灯も最初は、倉敷町新町(現・倉敷市阿知三丁目)にあった。
 しかし、10トンもの重さがあるといわれるガスエンジンを採用していたため、発電に伴う振動は、大音量で激しく家々を揺らし、近隣の住民の生活を大きく侵害した。

 被害を訴える住民と会社との交渉や裁判を経て。
 大正元(1912)年12月、資本金を5倍に増やした倉敷電灯が、新しい発電所を倉敷町西茶園(現・倉敷市船倉町)に建設することで、発電事業による公害問題は解決をみた。

 なお、これにより当初43キロワットだった発電量は、200キロワットにまで増加した。


参考文献: 「新修 倉敷市史」
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大正14年ごろ

用水配水池 (酒津婦人会発行)

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平成23年9月

 酒津の配水池は、明治43年末から大正14年春までの高梁川大改修工事の一環として、改修後の農業用水の公平かつ効率的な配分のため造られた。

 配水池の北からは八ケ郷用水、南からは分水樋門を通じて西岸用水・西部用水・南部用水・備前樋用水・倉敷用水の5つの用水が分岐している。これらは倉敷市・早島町の田畑を潤す貴重な役目を担っている。

 昭和30年代、この配水池は、春の花見時期には伯備線に臨時駅「酒津駅」ができるほどの桜の名所であり、夏は子ども達の遊水池になり、また貸しボートが水面に浮かぶ憩いの場所であった、との思い出を語ってくれる人も多い。
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大正14年ごろ

用水取水樋門 (酒津婦人会発行)

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平成23年9月

高梁川にある取水樋門。樋門の上を走るのは、県道24号線。


 明治43年末から始まった高梁川の改修工事は、大正14年春に完成をみた。
 足掛け15年の大工事であった。

 新たに一本化された高梁川では、個々分立していた11の取水樋門(一の口樋、八ケ郷樋、倉敷樋、備前樋、龍の口樋、福田古新田樋、福田樋、片山樋、船穂一の口樋、船穂三の堰樋、弁才天一の口樋)を統一し、農業用水を公平に配分することを目的に、倉敷市酒津に笠井堰・取水樋門と配水池を造った。

 これに先駆け大正5年には、19町村(都窪郡中洲村、中庄村、庄村、豊洲村、茶屋町、早島町、倉敷町、大高村、帯江村、万寿村、菅生村、浅口郡河内村、連島町、船穂村、長尾村、玉島町、富田村、児島郡福田村、粒江村)による「高梁川東西用水組合」が設立され、大正12年の新設樋の利用開始以降、現在に至るまで安定した農業用水を、かつての19町村である倉敷市・早島町に供給している。
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大正14年ごろ

用水工事竣工記念碑 (酒津婦人会発行)

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平成23年9月

 明治43年末に始まった高梁川の大改修は、大正14年春に完成を見た。

 東西の高梁川を一本化することで治水対策とし、両岸で11に分かれていた取水樋門を、倉敷市酒津の笠井堰・取水樋門、配水池に統一することで農業用水の公平な配分を可能にした。

 高梁川の大改修と新しい水利施設の完成を祝う完工式は大正14年5月20日、配水池西の東西用水組合事務所前で盛大に開催された。

 式典には内務大臣や岡山県知事をはじめ六百人が参加したが、これに先立ち東西用水組合は配水池の周辺に桜、楓、松など六千本あまりを植樹し、用水工事竣工記念碑を建てた。
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大正14年ごろ

用水分水樋門 (酒津婦人会発行)

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平成23年9月

 大正14年に大改修を終えた高梁川は、かつて両岸に点在していた11の取水樋門を倉敷市酒津の取水樋門に統一した。

 当時の県知事の名を冠した「笠井堰」で高梁川本流から配水池へ農業用水を取り込み、分水樋門で現・倉敷市、早島町の各地に用水を配分している。

 写真左から、西岸用水、西部用水、南部用水、備前樋用水、倉敷用水と5つの用水に分水するのが、写真の分水樋門「東西用水酒津樋門」である。

 当時の技術の粋を集めたこの樋門は、土木学会選奨土木遺産(平成15年)疎水百選(平成18年)、近代化産業遺産(平成20年)に選ばれている。
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大正14年ごろ

酒津延命山真如院 (酒津婦人会発行)

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平成23年9月

韶法山済興寺


 大正14年の絵葉書に「延命山眞如院」と表記されているこの寺は。
 現在「韶法山済興寺」と号し、酒津配水池の北にある。

 都窪郡誌には。
 「当院は河川改修のため大正六年東酒津字荒神谷に移転せり」とある。

 一方、中洲町誌には。
 「古来酒津本村にありしが河川改修のため大正四年東酒津字城の内に移転せり」とある。

 いずれにしても、高梁川の河川改修のため移転したものと伝わっている。
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大正14年ごろ

鑵子の弦より高梁川を望む (酒津婦人会発行)

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平成23年9月

写真左側、高梁川の土手の向こうに見えるのは、イオンモール倉敷


 現在の酒津・清音古地あたりで、東西2本に分かれていたかつての高梁川は、氾濫を繰り返す暴れ川であった。

 明治前半だけでも、2年、13年、19年、25年と大きな水害が相次ぎ。
 明治26年には台風による水害のため、死者のみでも309人を数える大災害となった。

 こうした水害の原因の一つは、大量の土砂が川床に堆積しているためであり。
 その土砂は、上流部で行われていた砂鉄採取(カンナ流し)による山を崩した土砂であった。

 土砂の堆積により天井川化した高梁川の治水対策は、河川の改修によるしかなかったのである。

 明治43年末から着工された高梁川の大改修工事は、東高梁川を消滅させ、西高梁川の一部を締め切って柳井原貯水池を造り、なおかつ川を西高梁川に一本化するという壮大な工事であった。

 明治43年暮れから始まった工事は、第一次世界大戦による諸物価の高騰や、改修計画の変更等で予定を大幅に遅らせることとなった。

 改修工事が完成したのは、大正14年春のこと。
 当初474万円余りだった工事費は、792万円余りに膨張していた。

 東高梁川は、改修工事により新しい高梁川が酒津八幡山の南を回って流れ始めた、大正12年1月で事実上廃川となった。
 大正15年7月には、内務省が「公用廃止」を告示して、名実ともに東高梁川は廃川地となっている。

 昭和16年には、廃川地である旧河口付近に三菱重工の航空機工場が設けられた。
 今日の水島工業地帯の先駆けと言えよう。

 なお、この大改修以降、高梁川の下流部で大規模な水害は起こっていない。
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大正14年ごろ

高梁川改修記念碑 (酒津婦人会発行)

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平成23年9月


「高梁川改修工事記念碑文」

 高梁川ハ岡山県下三大川ノ首位ニアリテ
 全国第一期改修二十ケ川ノ一タリ、

 其灌漑区域頗(すこぶ)ル広ク水利甚ダ大ナルモノアルト共ニ
 水害区域亦従ツテ広ク被害激甚ヲ極メタリキ、

 即チ洪水ニ際シ堤防道路等ノ破壊、農作物其他ノ損耗筆舌ニ絶シ
 人畜ノ死傷住宅衛生上等ノ損害亦測知スベカラザルモノアリキ、

 是ニ於テ政府観ル所アリ明治四十年改修ノ工ヲ起シ、
 工費七百九十余万円ヲ計上シテ本省直轄工事トシ
 左岸湛井ヨリ右岸秦村ヨリ下流全部ノ改修ヲナスコトトナレリ

 爾来施工ニ年ヲ閲スルコト十有八其間官民ノ措置宜シキヲ得、
 今将ニ功ヲ竣ヘントスルニ至ル、

 恐ラクハ将来再ビ惨害ヲ蒙ル憂ナカルベク
 永ク沿岸一帯ノ福利ヲ増進セン、

 茲ニ大正十四年四月竣工ヲ見ルニ当リ
 直接之ガ恵沢ニ浴スベキ吉備、都窪、浅口、児島四郡四十五箇町村相謀リ
 此ノ砕ヲ建設シ以テ永遠ノ記念トス

大正十四年四月
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大正14年ごろ

鑵子の弦の勝景 (酒津婦人会発行)

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平成23年9月

倉敷市酒津 県道24号線


 倉敷市酒津から総社市清音黒田にかけての高梁川沿いの道は、かつて「鑵子(かんす)の弦」と呼ばれる断崖絶壁の難所であった。
 鑵子とは湯釜や茶釜のことで、弦は釜を吊るす「つる」のこと。

 眼下に高梁川の急流を見る、細く曲がりくねって見通しの悪い道をそう称したのであろう。

 この道が、酒津村の児島徳平治により整備され、車馬の通行が容易になったのは、明治7年ごろとされる。

 現在では、この道は主要道の一つ、県道24号線となっている。

 また、古写真にはすでに伯備線の軌道が見える。

 倉敷駅から宍粟駅(現・豪渓駅)の間で伯備線が開通したのは、大正14年のこと。
 伯備線はこれに前後して延伸整備され、昭和3年に全線が開通した。

 こうした道路の整備や鉄道網の発達は、物流の形態を大きく変えることになり、江戸初期以降、備中の物流を支えた高瀬舟は次第にその姿を消していった。
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大正半ば~昭和初期

源平古戦場 藤戸渡

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平成23年6月

倉敷市粒江 西明院境内


 今から八百年の昔、寿永三年(1184年)十二月(旧暦)。
 源平藤戸合戦の行われた頃は、このあたりまで一面の海であった。

 対岸の源氏の陣中より、佐々木盛綱が馬で海を乗り切り、この地に上陸し、一気に平氏の陣中に攻め入り、源氏を勝利に導いた。

 当時馬で海を渡るなど、前代未聞驚異的な行為であった。(源氏方には舟がなかった)

 後に盛綱は、この地に「先陣寺」という寺を建て、戦没将兵と、渡海の手引きをしてくれた恩があるにもかかわらず、他言を封じるため斬殺した浦男との冥福を祈った。

 当時は規模も広大であったが、いつしか衰えてしまって、一宇の小庵に、名残を留めているにすぎない。


藤戸史跡保存会
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大正半ば~昭和初期

御野立所附近全景 (岡山県都窪郡菅生村)

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平成23年6月


 倉敷市西岡。

 写真に大きく写る道は、西岡から浅原、総社へ抜ける坂の多い旧道である。
 山の斜面(北西方向)に見える寺は、行願院。

 また、この道を奥へ、つまり浅原へ抜けると、安養寺がある。

 行願院のある小山は、奈良時代に鑑真和上が来日した際、開基された寺山であると伝わる。
 最盛期には十二房があったと言われ、いくつかは現存の寺院につながるとされる。

 また、ここから山道を登った安養寺は、倉敷きっての古刹。
 寺伝には、奈良時代に高僧報恩大師が国家祈願の寺として開山したと伝わる。

 その後、平安時代には朝原山として寺院が軒を連ね、朝原千房と呼ばれるほどの繁栄を見せた。
 その往時の証となるものが、平安時代の銘の入った瓦経(がきょう)の出土した安養寺裏山経塚群である。

 瀬戸内の波が、このあたりの山裾を洗っていた古代。
 中国・朝鮮から、九州を経て大和へ連なる瀬戸内海は、仏教伝来の道であった。

 そして、西岡周辺はその伝来の道の重要な中継点であったのであろう。
 そう考えると、当時多くの寺院に連なっていたであろうこの道は、人々の仏への祈りの道であったと言えはしないだろうか。
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大正15~昭和10年ごろ

藤戸町 藤戸寺

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平成22年5月


 源平合戦ゆかりの寺、藤戸寺。
 地元でも真言宗の古刹として、親しまれている。

 このあたりでは。
 毎年、真言宗の開祖、弘法大師(空海)に捧げる大法会がある。

 弘法大師正御影供大法会。
 通称、「御影供(みえく)」である。

 160年の間。
 毎年絶えることなく、結衆寺院(13寺院)の持ち回りで大法会が勤められている。

 今年は、藤戸寺が当番寺であり。
 4月30日から5月4日まで法会が行われた。

 写真の5月4日は最終日、結願の日。

 境内がにぎやかに見えるのは。
 「稚児入り練り供養」、つまりお稚児さん行列の真っ最中だから。

 子どもを中心に、家族が付き添う大行列である。


 最近はこのあたりも古い家々が徐々に消え。
 田畑は造成され、「地の者」ではない新しい家々が立ち並ぶ。

 それでも、今なお法灯は守られ続けている。
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昭和5年~10年ごろ

倉敷市 新渓園

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平成22年4月

 新旧の写真の中央やや左。
 新渓園の由来を示した石碑が見える。
 (大正13年5月建立)


 大原美術館の南側にある「新渓園」。

 明治26年に大原孝四郎により建築。

 大原家の別邸であったものだが、大正11年に孝四郎の子・孫三郎によって倉敷町(現・倉敷市)に寄贈された。
 そのとき、大原孝四郎の雅号「新渓」から「新渓園」と名づけられた。

 今は、茶会、かるた会、結婚式など。
 和の文化の拠点として広く人々に親しまれている。
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明治末期~大正半ば

 味野付近 瑜伽大権現

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平成21年12月

 以前紹介した、この由加神社の鳥居。

 先日判明したことであるが。
 上段の古い写真にある鳥居は、今もある備前焼のそれではなく、「銅」づくりであるとのこと。

 備前焼の鳥居は、昔も今も変わることなく、東隣(写真右側)にあり。
 明治末期~大正半ばの写真にあって、平成21年12月の写真にはないものが、銅製の鳥居である。

 昭和のはじめに撮影された写真には、まだ銅の鳥居が写っているので、取り去られたのはその後のことである。

 最後に、そのことを記述した部分を引用したい。


「由加山の銅鳥居」

 由加山には安政のころに建立したという銅の鳥居が、威容をほこっていた。
 また、備前焼の大鳥居も近くにあり、ともに有名であったが、銅の鳥居の方は第二次大戦中に供出され、ふたたびはもどってこなかった。


引用文献: 「ふるさとの想い出写真集 明治・大正・昭和 児島」  森脇正之・編
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