
大正初期
備中倉敷・前神港。
中央に中橋、右に小山家の土蔵(現・倉敷考古館)、橋の向こう側の水面には屋形船「かき増」が見える。

平成20年5月
江戸の昔、倉敷は水の都であった。
天領として蔵の立ち並ぶ倉敷は、物資の集散地であった。
物資の交流拠点・倉敷には、倉敷川を中心に水路が張り巡らされ、「水運」はまさに生命線であった。
手元に昭和10年の倉敷市街地図がある。
現在では面影もないが、中央・本町の多くの道と平行に川が走り、あるいは今ある道そのものが川であり、それらは倉敷川とつながっていたのである。
江戸時代に戻り、市街地から目を広げてみよう。
児島湾(現・児島湖)から、岡山市灘崎・彦崎・藤戸・粒江・船倉を抜け、美観地区にいたる基軸の倉敷川。
倉敷川から粒江で分かれ、粒浦・浦田へ抜ける吉岡川。
倉敷川から藤戸で分かれ、茶屋町・帯江・五日市・中庄へ抜ける六間川。
六間川から茶屋町で分かれ、茶屋町・早島へ抜ける汐入川。
また、六間川は、中庄から下庄・岡山市撫川を抜け、岡山市妹尾で足守川と通じ、同じく妹尾で南に走り児島湾に抜ける妹尾川にも通じていた。
これらはすべて船入川として使われ、それぞれの川で荷の上げ下ろしが行われる「川港」は特に栄えていたと言われる。
さらに、児島湾は、倉敷川だけでなく、足守川・旭川・吉井川が注ぐ江戸時代の水運の要衝であった。
倉敷川を基軸にした船入川の数々と、児島湾を仲介とした「水運」は、備中と備前を、さらに他国とをつなぐ、まさしく物流の要であったのである。
今、美観地区以南の倉敷川には、数人の川漁師が船を浮かべるだけである。
(参考文献: 倉敷の歴史・第2号 「備南地方における船入川と水運」 片山新助・著)